『さようなら僕の小さな名声』について

チェルフィッチュはオシャレで、ポツドールはエロで、五反田団はダサい」。文学界2007年10月号に収録されていたチェルフィッチュ主宰の岡田利規ポツドールの主宰の三浦大輔、そして、五反田団主宰の前田司郎による座談会「新世代の超リアル演劇論」で指摘されていたことだ。三人の作品に触れていた私はこの皮肉のこもった結論に笑いながら縦に首を振るだろう。
 『さようなら僕の小さな名声』は五反田団の2006年の作品である。残念ながら、芝居自体は私が未見のため舞台の使い方、役者の演技、前田司郎の演出には触れることができない。もしそこにふれるような事態が発生したときは、五反田団の芝居で唯一鑑賞した『いやむしろわすれて草』の雰囲気を参考にしていると思ってほしい。だから、私は今回できるだけ戯曲のことだけで話を進めたい。本作は昨年の岸田賞のノミネートを受けていた(残念ながら、結果は該当者なし。)話の内容は「岸田賞を遂に受賞した前田司郎の話」。
 五反田団の作風は文学界の座談会のタイトル通り、超リアルな演劇である。声を張り上げることも大きな動きをすることもなく淡々と何事もない話が続いていく。(だが、もちろんそこには緻密すぎるほど台本と演出と演技が存在する。)『いやむしろわすれて草』はそうだった。だから、あらすじと五反田団のイメージを合わせて考えたとき、おそらく多くの人間が考えるとおり「皮肉な作品だ。前田司郎いやらしいな。」と感じた。だが、戯曲を読み進めていくうちにどうやらそのような作品ではないようだと感じ始めた。新作が書けないことで記者に馬鹿にされ、意気消沈して帰宅した前田は彼女から三越の包装紙に包まれた岸田賞の盾を二個ももらう。一個で充分と考えた前田はちょっと頭の足りない劇団員サチコを連れて、貧しい国マターンへ寄付しに行くことにする。マターンにはバスで移動するのだが、バスの運転手はなぜかリス。リスが運転するバスはマターンに着き、ある父親、息子、娘の三人家族のところに行き、岸田賞を寄付する。途中から、岸田賞を獲れない自分、獲らせない選考員への皮肉は薄れ、岸田賞を獲ったことは作品の中心事ではなくなる。岸田賞をそこの家族の父親に渡すも何に使うかわからず、鍋敷きにされてしまいそうになる始末だ。
前田司郎(本人)は岸田賞が欲しい「フリ」をしている気がする。五反田団のホームページを見て欲しい。(http://www.uranus.dti.ne.jp/~gotannda/)そこには前田司郎の小説が賞にノミネートされたこと、そして、落選したことが書かれている。そこからは、前田司郎の賞への執着心が滲み出ているように一見感じる。だが、それは「フリ」のような気がしてならない。それは、本作のところどころにある「世界を飲み込む」という台詞に見て取れる。本作では「蛇」が多く登場する。前田の彼女は、前田がマターンに行っている間に体の半分を蛇に食べられているし、マターンの家族の娘は父親が若気の至りで蛇との間にできた人間(?)だし、冒頭も蛇の図鑑を彼女と眺める場面なのだ。娘は母親を飲み込み、マターンの国民もたくさん飲み込んでしまっている。そして、ラスト。世界を飲み込んで具合の悪くなった娘を横目に舞台にいる息子と劇団員と父親とアメリカのセックスシンボルボウゾノ(彼に会うためにアメリカへ行った)は退場してしまう。舞台上には娘と前田だけが残る。前田は劇のラストを考えるのが面倒くさいから彼らを退場させたと明かす。娘は世界と混ざってよくわかんなくなっちゃったのなら、自分が産んであげようと提案する。しかし、産まれるのは前田自身だった。このラストは岸田賞の選考委員会でも話題に上ったことが選評見るとわかる。多くの選考員はこのラストを支持しなかった。野田秀樹は「ただ「面倒くさい」から終わらせるというのは、「とぼけ」とは違う。」と評価している。
だが、本作のテーマとラストが合わないとは、私は思わない。選考員の力はどれを取っても私の比ではないだろうから、批評の点では私の考えに信頼性はない。考えに信頼性はいらないという開き直りのもとで言わせていただくが、本作のテーマは「フリ」と言えるのではないか。野田秀樹が言うところの「とぼけ」である。至極個人的な作品なのだ。岸田賞が獲れない皮肉ではないのだ。賞に執着することは一般的に格好悪い。どうでも良いと言うスタンスが一般的に格好良い。だが、それさえも前田司郎は恥かしいと感じている。そこで彼は「フリ」をする。実際のところは賞なんていらない。世界を飲み込みたいだけ。だが、別に飲み込むつもりはない。そんなようなことを考えながら、本作を書き上げたのではないか。そうでなければ、ラストをあんなに面倒くさくはしない。息子たちが退場する前、実は劇団員と父親は死んでいて、幻として登場し、「死ぬ」とは何かということを語りだすし、ボウゾノは最後の最後、急に出てきたキャラクターだ。わざと面倒くさくしたとしか考えられない。それは、きっと観客を拒むためだろう。前半のリスのバスのくだりで観客は完全に前田司郎脳内ツアーに参加したような気分になる。だが、それもあくまで「フリ」だったのだ。前田四郎は自分の頭に入ることを拒んだのだ。だが、その代わり世界と融合した前田を産ませ、次もまた良いのを作ると宣言した。
自分に自信がないフリをする。それが一番の自信である。ということを、作品ひとつを駄目にしても見せつけた。このラストが作品を駄目にすることがわかっていながらも実行せずにはいられなかった。前田司郎のこだわりのなさに私は強いこだわりを感じる。ひたすら「フリ」を続ける五反田団のダサさに私は不細工な笑顔を見せつけながら穴が開くほど見続けていきたい。


駄文や。