ゆれる

ゆれるつり橋
男子中学生
恐ろしくて渡れない


ゆれるつり橋
女子中学生
スカートだから渡れない


さあ、手をつないで
ファッキンへ行こう
君の笑顔に会えるから
ああ、その笑顔を
食べてしまいたい
もう君は僕のエビバーガー


僕の中の
危ない中学生
月が四角く見える


さあ、手をつないで
ファッキンへ行こう
君の笑顔に会えるから
ああ、その笑顔を
食べてしまいたい
もう君は僕のエビバーガー


さあ、手をつないで
ファッキンへ行こう
君の笑顔に会えるから
ああ、その笑顔を
食べてしまいたい
もう君は僕のエビバーガー

ここから

この前CD(ここでは敢えてアーティスト名は伏せておく)を聴いていて歌詞にハッとした

それはこんな歌詞だ



記憶を頼りに生きてる生物
期待も恐れも不安の産物
いっそ全てを忘れたならどうなるだろう?



正にこの世界の本質を鋭く言い当てているとは思わないか
みんなの日常を考えて欲しい
学校や職場などに毎日のように通う人
その場所を忘れたらどうなる?
いやその組織に属している事を忘れたらどうなる?
また友人の存在を忘れたらどうなる?
親の存在を忘れたらどうなる?

そう考えると私は怖くて堪らなくなった
この世の中に確かなモノなど何もないのだ
そう、明日を約束されているモノなんて何もない

それでも私たちは不確かなモノを積み重ねながら明日を生きていくのだろう

スタートするのはいつもここから

『さようなら僕の小さな名声』について

チェルフィッチュはオシャレで、ポツドールはエロで、五反田団はダサい」。文学界2007年10月号に収録されていたチェルフィッチュ主宰の岡田利規ポツドールの主宰の三浦大輔、そして、五反田団主宰の前田司郎による座談会「新世代の超リアル演劇論」で指摘されていたことだ。三人の作品に触れていた私はこの皮肉のこもった結論に笑いながら縦に首を振るだろう。
 『さようなら僕の小さな名声』は五反田団の2006年の作品である。残念ながら、芝居自体は私が未見のため舞台の使い方、役者の演技、前田司郎の演出には触れることができない。もしそこにふれるような事態が発生したときは、五反田団の芝居で唯一鑑賞した『いやむしろわすれて草』の雰囲気を参考にしていると思ってほしい。だから、私は今回できるだけ戯曲のことだけで話を進めたい。本作は昨年の岸田賞のノミネートを受けていた(残念ながら、結果は該当者なし。)話の内容は「岸田賞を遂に受賞した前田司郎の話」。
 五反田団の作風は文学界の座談会のタイトル通り、超リアルな演劇である。声を張り上げることも大きな動きをすることもなく淡々と何事もない話が続いていく。(だが、もちろんそこには緻密すぎるほど台本と演出と演技が存在する。)『いやむしろわすれて草』はそうだった。だから、あらすじと五反田団のイメージを合わせて考えたとき、おそらく多くの人間が考えるとおり「皮肉な作品だ。前田司郎いやらしいな。」と感じた。だが、戯曲を読み進めていくうちにどうやらそのような作品ではないようだと感じ始めた。新作が書けないことで記者に馬鹿にされ、意気消沈して帰宅した前田は彼女から三越の包装紙に包まれた岸田賞の盾を二個ももらう。一個で充分と考えた前田はちょっと頭の足りない劇団員サチコを連れて、貧しい国マターンへ寄付しに行くことにする。マターンにはバスで移動するのだが、バスの運転手はなぜかリス。リスが運転するバスはマターンに着き、ある父親、息子、娘の三人家族のところに行き、岸田賞を寄付する。途中から、岸田賞を獲れない自分、獲らせない選考員への皮肉は薄れ、岸田賞を獲ったことは作品の中心事ではなくなる。岸田賞をそこの家族の父親に渡すも何に使うかわからず、鍋敷きにされてしまいそうになる始末だ。
前田司郎(本人)は岸田賞が欲しい「フリ」をしている気がする。五反田団のホームページを見て欲しい。(http://www.uranus.dti.ne.jp/~gotannda/)そこには前田司郎の小説が賞にノミネートされたこと、そして、落選したことが書かれている。そこからは、前田司郎の賞への執着心が滲み出ているように一見感じる。だが、それは「フリ」のような気がしてならない。それは、本作のところどころにある「世界を飲み込む」という台詞に見て取れる。本作では「蛇」が多く登場する。前田の彼女は、前田がマターンに行っている間に体の半分を蛇に食べられているし、マターンの家族の娘は父親が若気の至りで蛇との間にできた人間(?)だし、冒頭も蛇の図鑑を彼女と眺める場面なのだ。娘は母親を飲み込み、マターンの国民もたくさん飲み込んでしまっている。そして、ラスト。世界を飲み込んで具合の悪くなった娘を横目に舞台にいる息子と劇団員と父親とアメリカのセックスシンボルボウゾノ(彼に会うためにアメリカへ行った)は退場してしまう。舞台上には娘と前田だけが残る。前田は劇のラストを考えるのが面倒くさいから彼らを退場させたと明かす。娘は世界と混ざってよくわかんなくなっちゃったのなら、自分が産んであげようと提案する。しかし、産まれるのは前田自身だった。このラストは岸田賞の選考委員会でも話題に上ったことが選評見るとわかる。多くの選考員はこのラストを支持しなかった。野田秀樹は「ただ「面倒くさい」から終わらせるというのは、「とぼけ」とは違う。」と評価している。
だが、本作のテーマとラストが合わないとは、私は思わない。選考員の力はどれを取っても私の比ではないだろうから、批評の点では私の考えに信頼性はない。考えに信頼性はいらないという開き直りのもとで言わせていただくが、本作のテーマは「フリ」と言えるのではないか。野田秀樹が言うところの「とぼけ」である。至極個人的な作品なのだ。岸田賞が獲れない皮肉ではないのだ。賞に執着することは一般的に格好悪い。どうでも良いと言うスタンスが一般的に格好良い。だが、それさえも前田司郎は恥かしいと感じている。そこで彼は「フリ」をする。実際のところは賞なんていらない。世界を飲み込みたいだけ。だが、別に飲み込むつもりはない。そんなようなことを考えながら、本作を書き上げたのではないか。そうでなければ、ラストをあんなに面倒くさくはしない。息子たちが退場する前、実は劇団員と父親は死んでいて、幻として登場し、「死ぬ」とは何かということを語りだすし、ボウゾノは最後の最後、急に出てきたキャラクターだ。わざと面倒くさくしたとしか考えられない。それは、きっと観客を拒むためだろう。前半のリスのバスのくだりで観客は完全に前田司郎脳内ツアーに参加したような気分になる。だが、それもあくまで「フリ」だったのだ。前田四郎は自分の頭に入ることを拒んだのだ。だが、その代わり世界と融合した前田を産ませ、次もまた良いのを作ると宣言した。
自分に自信がないフリをする。それが一番の自信である。ということを、作品ひとつを駄目にしても見せつけた。このラストが作品を駄目にすることがわかっていながらも実行せずにはいられなかった。前田司郎のこだわりのなさに私は強いこだわりを感じる。ひたすら「フリ」を続ける五反田団のダサさに私は不細工な笑顔を見せつけながら穴が開くほど見続けていきたい。


駄文や。

さぁ君はどっちだい?

さぁ君はどっちだい?

唐突に話しかけてくる

僕はすかさず悩むんだ

いやいや、お前誰だよとも言わず

いやいや、選択肢は?とも言わず

ためらいも無く僕は悩むことに没頭する

んー…

んー…

こうやって僕は時間を無駄にする

悩んでる暇なんてないぜとか言われて

僕はハッと気づく

悩んでいる時間が大事なのだと

さぁ君はどっちだい?

そうやってシアトルは

mommy062007-09-18

右側を走る車に流されて、気がつけばもう左側である
なんと坂の多い町か
かのジミヘンもカート・コバーンイチローもこの坂を上ったか
イヤホンはめて『Nevermind』を聴く


この町は乾いている
「Come As You Are」のゆれるイントロもそれを潤すものではない
乾いていて中に入るのを拒むんだ
交わろうとして近づいたものは跳ね返され
他のものにぶつかるまでまっすぐ飛んでいく
ちょうどブロック崩しのボールみたいに


「Breed」の歌い出しで世界は満ちた
この町はブロック崩しのボールだらけだ
お互いがお互いを跳ね返すことで安定してしまった町
そうすることで繋がる人々
それも、ありなのだ


町には実にカフェが多い
一ブロックに一つのスタバがあると言っても過言ではない
やはりコーヒーも、身に染み入るというのではない
胃袋の中でブロック崩し
でもただ一つ、
カフェで戦争は起こらない


坂を上りきって振り返れば、遠くビルの間に海が見える
アメリカ北西端の港町
ここで戦争は


お互いがお互いを跳ね返すことで安定してしまった世界
そうすることで繋がる人々
それも、ありなのだ

Bridal×Bridal

あなたとわたし

今から夫婦

紙切れに名前を書いて印を押して

なんてロマンチックな話

なんてリアリスティックな話

これはただの契約に過ぎない

あなた会社で汗水流して働いてお金を稼いで

わたしそれを出来る限りフォローするわ

お互い嫌になったら別れましょ

その時は財産は半分ずつにしてね

なんてロマンチックでリアリスティックな契約

現実はいつだってそう

JUNBI MOE

パソコンの買い替えのせいでなかなかブログを更新できませんでした。いろんな人、ごめんなさい。
今回のテーマは「準備萌え」です。みなさんはこの「準備萌え」という言葉をご存知でしょうか。別に「準備をしているときからムラムラ」という意味ではありません。この言葉は私が考え出した全く新しい「萌え」ジャンルです。ちなみに、私は普段「萌え」という言葉を全く使いません。なぜなら、嫌いだからです。大嫌いです。使い方もわかりません。だから、私個人の解釈で今回は「萌え」という言葉を使います。では、なぜ今回あえて私が嫌いな「萌え」という言葉を使うのでしょうか。昨今、「萌え」ブームというのが到来しています。正直、もう終わっていたりもするのでしょうか。そこの分野に関しては全く無知なのでもう終わってたりしたら今回のブログはなかったことにしてください。で、「萌え」ブームがまだ続いている設定で話を進めると、メイドやら方言やらマスクやら、なんでもかんでも「もえもえもえもえもえもえもえもえ」言っているこの日本の状況に私は毎晩毎晩頭痛と吐き気に苦しめられていました。だが、あるときふと思ったのです。逆にブームを見方につけようと。そして、あ!と「準備萌え」を考え出したのです。
では、「準備萌え」とはいったいなんでしょうか。それは、「準備している姿に何か熱いものを感じる」ことです。わかりやすく説明しましょう。たとえば、街でオダギリジョーを見たとします。とんでもなく奇抜な格好をしてiPodを聞いています。すれ違いました。ちょっと音漏れしていて聞こえてきたのがじゃずぃーなロックミュージック。どこからどこまでも格好よくて(この場合はオダギリジョーの好き嫌いは無視)なんかキーッてなりました。だが、しかし!と考えます。彼はiPodで音楽を聞くために準備をしているんだ!パジャマのままでパソコンの前に座りCDを取り込ませているんだ!かわいくないですか?
なんかそうでもない気がしてきたので忘れてください。
ごめぇんね。